「学校を元に戻して!」多くの人に伝えたいメッセージ

 このブログは、育児ブログであり、気まぐれに投稿しているだけだから、アクセス数ももちろん多くはない。

ここに書いて、意味があるか分からない。でも、他の直接的な手段はもうしてしまったし、

やれることは何でもやってみようと思った。

 現在、長男は三年生、次男は一年生。4月からはまた、一年学年が上がる。

長男が二年生の終わりのころ、急に登校をしぶるようになった。

頭が痛いとか、お腹が痛いとか言って、休ませたり病院に行ったりもしたが、あまり変化はなかった。

熱はないし、本当に具合が悪いのかもよく分からなかった。

ちょうど、同じころからだろうか。「新型のウイルスがでた」
  
と、ニュースをみない私は息子から聞いた。最初はあまり、気にしてなかった。

気にしてなかったというか、それどころじゃなかった。朝起きない息子を、休みにするべきか、無理やり行かせるべきか、毎日悩む中。

一番忙しい時間に決断しなければならなかった。しかも、行くのをしぶるのは長男だけではない。

保育園に通っている二人も、同様だ。

朝、嫌がる三人の準備をするのは容易じゃない。しかし、あえてそこは説明しない。

理解できない人は、きっと説明したって、分からないだろうから。

そんな中、次男が卒園を迎えた。卒園式が短縮されるという話が出て、 
  
ようやく私は、今までにない非常事態が起こっていると知った。

 学校が休みになり、入学式が遅れてスタートした。そのせいもあり、最初はあまり気にしてなかった。

 次男がひらがなを覚えないということに。もともと、ゆっくりな子たちではあるし、勉強のスタートも遅れたからだろうと。

個別支援級で、先生もいろいろ工夫してくれてるし、そのうち覚えるだろうと思っていた。

 先生の指導もあり、連絡帳はちゃんと書いてくる。字が大きいからか、一年間で三冊使った。

なのに、なんて書いてあるのか、分からない。文字と音がつながらない。一文字も。自分の名前さえも。

数字は少しは理解するようになった。なので、計算などはさせているようだった。

しかし、文章が理解できないのに計算だけすることに不安があった。

算数だって、問題を読んで解くものだ。内容を先生が説明して、計算だけするのでは意味がない。

そして、ひらがなが覚えられないまま、一年が経ってしまった。

 今年は、保護者の学校行事が減っているが、個別支援級の面談だけはあった。

内容は、主に遅刻と学習の遅れについて。

登校をしぶる中、行かせるから遅刻になる。仕事があるから、簡単には休みにできない。

あきらめてしまえば、登校拒否ということになるのだろうが。

 でも、こうなっているのは、うちの子たちだけではないと
、風の噂に聞いた。

 長男に「間に合って、学校に行かなきゃ」と思わないのかと聞いた。長男は「思わない」と答えた。

次男は「学校は、楽しいが壊れてる」と言った。私はぎょっとした。

 次男の学習の遅れについて、また療育センターでの検査を勧められた。

 何でひらがなが覚えられないのだろうと考えているとき、ふと、ある言葉が頭に浮かんだ。

「マスクのせいだ」

化学的なことを求めている人には申し訳ないが、私は直感で動くタイプだ。

でも、その直感はけっこう当たっていると自分では思う。

 教育関係の仕事をしている友人にも聞いてみたら、なかなかいい線をいっていると言われた。

聴覚障害の方は、口の形で人が何を言っているのか理解すると聞いたことがある。

普段、私達も何気なく相手の口を見て、会話していた。今までは。

最近は、何となく相手がなんと言っているのか分かりにくくなったと、誰もが思っているのではないか。

 大きい声では感染すると、音量もひかえなければならず、余計に分かりにくい。

おしゃべりもひかえなければならず、コミュニケーションが減っている。

 この一年は仕方なかったと思う。子どもの学習が一年遅れてしまったことで、先生方を責める気持ちはない。

先生方は、上からの指示に従っただけなのだから。

 しかし、もう一年は遅い!そんなには、待てない。

たくさんの人の恐怖の気持ちを、取り払うのは簡単でないかもしれない。

 たしかに、病気はつらい。人は死ぬことがある。けれど、なぜコロナだけを特別視するのか、私は分からない。

感染するしないで、誰かを責めるつもりは、私にはない。


 
 もし、今の状態を変えたいという方が他にもいたら、ぜひ声に出してもらいたい。



 



 

 

未来は自分で決める

 大人になるといつの間にか、嫌なことでも、習慣のように選んでしまうことがある。何で、選んでいるのかと考えると、
例えば、指示されたわけじゃないけど、なんとなく喜ばれるのではないかと気を使ってたり、常識的に考えたら、こっちがいいのではないかと思ったり。
 たしかに、いきなり仕事をやめたり、サボったりするのは良くないことかもしれない。しかし、例えばどちらを選んでも問題ないとき、楽しそうな方を選ぶ、そんな子どものころのような自由を取り戻したいと思った。そうすれば、なんとなく思うようにいかないような日々を変えられるかもしれない。そんな気がした。
 でも、いざ変えようとすると、なぜこんなに足が震えるのか。どうして、こんなに勇気がいるのだろうか。

 けれども、どうしても作りたい未来、どうしても出会いたい人。私は絶対あきらめたくない。

コロナ 今起きていること

 前回の投稿から、一年近くたってしまった。新しい仕事をはじめ、しばらく専念していたけど、コロナのこともありしばらくお休みになってしまった。もともとやっていた、パートは休みにならない種の仕事なので続いている。少し時間が空いたのと、また何となく綴ってみたくなったので、投稿することにした。

 

 新型コロナウイルス感染症の流行によって、起きている様々な出来事がある。例えばある人は、仕事が休みになり時間ができて、外に遊びにいくことはできないけど身の回りのことや家族と過ごす時間ができた。

 

少し遅いという気もするが、やっと「体調の悪いときは、休みやすい職場環境づくりを!」というのが一般的に言われるようになってきた。本当に大事なことは何かを考えられる状況になった。

 

 

 常識が変わってきている。今までとは反対のことが正しい世の中になった。

 

 今、世の中にとって重要なことが起きている、いや起きようとしていると感じる人が他にもいると思う。できればこの変化は広い意味で「いいもの」であってほしいと願う。

 

人によっては、むしろ忙しくなってしまって大変な人もいると聞く。経済的に困っている人もいる。こういった人達には、二転三転の変化が必要なのかもしれないが、最終的にはいい方向にむかっていくと信じたい。

 

 直接的なウイルスの影響のある方には、楽観的で申し訳ないのだが、あまり不安な気持ちや心配な気持ちのままでいることができないたちで、自然に前向きに頭で変換してしまう。

 

 

 学校の教育に関しても思うことがある。今までのブログで、子どもの発達に関して悩んできた経過がある。そんな中、学校が臨時休校になり大幅に授業が遅れる事態が起きた。

 

 さらに数週間、そして一か月と休みが延長していく中、もちろん早く元に戻って欲しいという気持ちもある。仕事が休めない中でのお弁当作りは正直めんどくさい。

 

 でも、また別の気持ちが自分の中にあることに気づいた。

「もっと・・・もっと壊してしまえ。」

そんな、心の声にぎょっとした。

 

 

 今までの世の中の仕組みが、変わればいいという気持ちはずっとあった。優劣で価値が決まる世の中。子どものころは、頑張って上位を目指していたときもあった。

 

しかし、子ども達に出会い親になった今、考えは変わった。変わったというよりも、本来の自分の考えを思い出したのかもしれない。

 

 授業の遅れが大幅になり、そろそろ無理やりいそいで進めるには、厳しくなってきただろうか。これをきっかけに、学習の内容が見直されていくかもしれない。本当に将来必要な教育とは何かが、考えられるようになってほしい。

 

子ども達が学習の多い少ないや、学力だけではない、それぞれの成長ができるようになるといい。受験や就職活動で将来が決まるのではなく、誰もが本当に自分にあった役割を見つけられる、そんな世の中になってほしい。

 

 

 

 

聖書と発達障害と遠足と

 ときどき、聖書の教えを伝えようと、家に訪れる人がいる。私は別に、信者ではないけれど、強引に勧誘しようとするのではなく、ただ話を聞いてもらいたいだけのようなので、時間のあるときは、話を聞くこともある。

 

 その中で、「知識の実」の話について紹介されたことがあった。昔、アダムとイブが、神に決して食べてはいけないと言われた実を、へびにそそのかされて、食べてしまい、エデンを追放されてしまった話だ。へびは、その実を食べると知識を得て、神のようになれると、言ったらしい。

 

 実を食べた二人は、知識を得ることはできたが同時に、不安や恐れ、悲しみといった負の感情を知ることになり、永遠の命も失った。

 

 この話を聞いて、当時子どもの言葉の遅れについて、指摘され悩んでいた私は、少し気持ちがラクになるのを感じた。

 

 近頃は、支援学校や支援級に行く子が増えていることや、学力の低下を問題視する話をよく聞く。しかし、それは本当に良くないことなのだろうか・・・

 

 この前、個別支援級の遠足があった。2年生になった長男は、上機嫌で出かけて行ったが、あとから水筒を忘れていることに気づいた。何度も忘れないようにと、声をかけたのにと思いながら、届ける算段を考えた。はじめは、学校まで届けることを考えたが、後から途中の道で渡せば、時間も少し遅くていいし、距離も近いと思いついた。

 

 狙い通り、歩いている途中の息子に水筒を渡し、過ぎ去っていく集団を後ろから眺めた。人数は30人を超えるらしい。きっと知らない人には、個別支援級だとは分からないだろうと、なんとなくうれしかった・・・

嫌いなことを楽しむ方法

 私は、掃除が嫌いだ(笑)。せっかく片付けてもすぐ、ちらかってしまうし。頑張っても、やるのが当たり前、簡単なことというふうに捉えられる。本当はそうではない。人が面倒だと思うことを嫌がらずにすることは、もっと評価されるべきだと思う。

 

 自分の身の回りのことを、人にやってもらうのが私は苦手なので、たとえやりきれなくても、自分でやった方がマシだと思う。なので、掃除が嫌いでもやらなければいけない。そんな掃除を自分にやる気にさせる方法を最近知った。

 

 

 例えば花束を…部屋が片付いてなくても作る。すると、それを飾りたくなる。そして、自然に体が動き片付けをしだす。

 

 料理をして、何となく写真に撮ろうとする。すると、ある程度きれいに見える場所が必要になる。そして、片付けだす。

 

 この前、子どもの七五三写真を撮りにいった。自分の子ながら可愛いと満足感にひたり(笑)、せっかくの写真立てを奥にしまいこんでしまうより、いつも見える場所に飾りたくなった。そこで、やっと玄関の靴箱の上の、チラシの山を片付ける気になった。

 

 

 片付けられない自分を、嫌いになりそうなことがあった。でも、大事なのは、自分の習性を知ること。まず、自分の好きなことからすれば良かったんだと気づくことができた。

 

 

天職を考える

 小学校のクラス文集に、「将来は花屋さんになりたい。」と書いたのを覚えている。おそらく、花が好きだと言ったら母から、「じゃあ、お花屋さんになったら?」などと言われて決めたのだろう。

 

 子どものときに花屋さんに憧れる子はたくさんいるが、だんだんいろんな理由で変わっていき、実際に大人になって花屋で働くようになる人は限られているかもしれない。

 

 

 実際働き初めて、毎日花にふれることができ、楽しい気持ちはあった。自分に合っている仕事だとも思っていた。しかし一方で、経営していくことの難しさを目の当たりにしたり、ベテランのスタッフさんと自分を比べて、届かないという気持ちを感じたりもした。

 

 失敗して怒られるということも、もちろんあった。ときには、なっとくできない理不尽なこともあった。でも、まだ自分は学ぶ時期なのだからと、気持ちを抑えて従っていこうと思っていた。

 

 

 この抑えていた反発心。我慢するのが世渡り上手であるという場合もあるが、私の場合いづれ爆発してしまう。「どう考えても、相手が間違っているし、もう限界だ!」という状況に陥ってしまうのだ。そして、この気持ちを感じることがないところへ行きたいと思うようになった。

 

 そのためには、自分が上に立つか、上下関係のない仕事をするしかない。新しく入った職場で、出世していき上司がいない立場になるのは簡単なことではない。また、誰かを蹴落として自分がのし上がりたいというのとも、違う気がした。

 

 花に関わる仕事がしたいとは思いつつも、何かが違うと感じもした。そういった中でふと、自分は「教える」ということが好きであるということを思いだした。後輩に仕事を説明して、相手が上手くいくことがうれしかった。人と接している仕事の中でも、ただものを売るというのではないものを求めている気がした。

 

 町を歩いてみては、「ここだったらいい、何かお教室を開くのにいいな。」とか考えている自分がいることに気づいた。

 

 人が楽しめる場をつくりたい。本当に癒されるために、必要なことは何か?

イメージがまとまってきた・・・

 

 

どっちの道を選んでも大丈夫♪

 私の母はこだわりの強い人で、食べ物や薬品、使用するものなど「これは絶対だめ!」という話をよくしている。アレルギー食材についても、アレルギー体質の人でなくても卵はダメ、牛乳はダメなどの話をしょっちゅうしている。それを聞いていた弟が、「オレ、人参アレルギーだから人参食べれない。」と言ったときは、おかしかった。

 

 最近は、予防注射に対する話をよくしてくる。「インフルエンザの予防注射には、体に良くないものが入っているよ。」と、何度も繰り返し言ってくる。私は専門家ではないので、この話が本当のことか、もしくはただの都市伝説なのかは分からない。もし本当なら、より安全なものになるように改善してほしいとは思う。

 

 

 しかし実際、予防注射をしている人はかなりの人がいる。私も、いくつかの注射を子どもにも受けさせている。うつるものなど、学校や保育園で心配されそうなものに関しては一応病院に行っとく。

 

 かといって、必ず病院を利用するというタイプでもなく、自宅療養で治る軽いものの場合はさほど気にしない。お医者さんの言葉でも、「ちゃんと、薬を飲まないと大変なことになるよ。」といった言葉は余り好きではない。私にとっては母の言葉もお医者さんの言葉も、実際に勧めているものは違っても、聞いたときに同じように疲れてしまう。

 

 せっかくなら、相手が良くなるイメージとともに、自分の良いと思うものを勧めてくれればいいのにと思う。そして、自分の考えと違う道を選んだ人に対しても、「そういう考えもあるんだ。」ぐらいに考えて、それはそれで上手くいくように願いたい。